しのみやチキンの昔のはなし No1
このコーナーは当店の誕生からこれまでの変遷を書き綴ったものです。興味と時間のある方は読んでみてください。
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1,農家の庭先の「にわとり」たち
むかしこのあたりの農家の庭先にはどこの家でも「にわとり」たちが放し飼いされていました。熱心な農家ではにわとりを家畜として利用し収入の足しにするため、にわとりを飼育管理して一定の場所に卵を産ませ、副収入を得る手だてとしていました。そのためにある程度にわとりの羽数を増やして簡単な板囲いや網囲いの中に鶏たちの休息場としての鶏小屋を設けるようになるとその収入も増加し、魅力度も増してきます。
家畜の利用による増収策はかなり古くから多くの農家で実行されていたようですが、なかでもにわとりを飼育することは手軽にどこででも出来ました。ただ、大きなネックは飼育羽数を増やすことが簡単では無かったということでした。自家消費程度の規模であれば親鳥に任せて自然育成で足りるのですが、家計の足し、事業の一つにしようとすれば当然それでは間に合いません。私の父はそのことに着目をし農家の副収入手段を提供する新しい業務として生まれたばかりのヒヨコを若どりに育成する仕事を考案しました。
当時、この田無は有数の商業の街でしたが近辺の村々は全くの農村社会でごく少数の大規模な篤農家以外はどこの家も貧しさと闘って熱心に働き、そしていろいろな工夫や努力をしながら暮らしていました。多くの農家では少ない投資で、多くはないが確実な収益が期待できる家畜たちに夢を託し、父の提供した若いひな鳥を購入してくれました。
私の父は明治43年に東久留米市のある農家の末弟に生まれ育ちましたが、生来の心臓病持ちで農家の作業を手伝うのに難渋するほどで、生業を見つけるのにかなり苦労したようです。もともと生き物が好きであったこともあり比較的体力が勝負という業務でないことがヒヨコを育てるというその道を選んだ大きな要素であったようです。
すでに昭和の初めには採卵養鶏業は広く知られた農業経営になっていたので全国的にはヒナを孵化する専業者があちこちにありました。そこから生まれたばかりの初生ビナを購入し2ヶ月令ほどのヒナに育て農家に提供します。
通常にわとりは5ヶ月から6ヶ月で成鳥になり卵を産み始めます。自然孵化から自然育成だともうチョットかかりますが将来の生産性や活動能力は両親の能力と2ヶ月令までの環境でほぼ決まってしまいます。そういった基本的な知識はにわとりを増やして収入源の一つにしようかと考える農家にとっては直ぐに理解出来たことです。特に副業で採卵養鶏を考えた農家には好評だったようで、当時の生産力向上という国策と相まって全国的に農村での家畜飼育がブームになっていました。
父が育てて分譲したのは主に中雛で生後2ヶ月60日令〜3ヶ月90日令程度のヒナでした。因みに産まれたばかりのヒナを初生雛、3ヶ月を越えると大雛といいました。
父の中雛は前向きな農家によく売れ、年ごとにその実績が評価を高め信用を得ていったのですが、世の中が軍国調になり威勢の良い硬派がはびこって、そのあげくにきなくさい戦時色に染まってくると農業生産も事情が変わり統制管理の窮屈な時代になっていき、更には飼料や機具も公の管理下となりやがて配給制になっていきます。
父が生業とした中雛仕立ては当時としてはかなり特殊な業態でやがて飼料の配給も制限をされるようになるとイの一番に規制を受け正規なルートでは配給も得られなくる。やむを得ず自身でも採卵養鶏を始めることとなっていきました。
そして太平洋戦争の末期にはそこそこの飼育数をかかえる採卵養鶏として実績をあげるようになっていましたが、戦争が激しくなりだしたころからその飼料の確保にも苦労することが多くなり、終戦直後は飼料の調達確保に難渋しつくしたようでした。
また、生産物の鶏卵も当時は贅沢品とされており一般の庶民にはなかなか手が出ない食品で、その販売先探しにも苦労するなど事業の将来見通しが立たない状況が続いていました。
(2,ブロイラー に続く)